明日のために。

東京国際フォーラムで明日やる『アート・手づくりフェスタ』の仕上げで画材が足りなくなり世界堂へ。

アクリル、アルキドときて油に戻りたいのだけど、買い足してると中々スイッチできない。

ただ、誰かに渡すなら妥協はしたくない。

そうして僕は世界堂に吸い込まれていく。

アート・パル 佐藤健二

11月29日『アート・手づくりフェスタ』に参加します。

ART-Pal は明日11月29日に
東京国際フォーラム(有楽町)
で開催される
『アート・手づくりフェスタ』
に参加します。

開催時間は朝の10時〜16時(夕方4時)まで。
お近くにいらっしゃる方は是非ご来場ください。

参加は佐藤、下村氏、熊倉氏、小西氏になります。写真は昨年10月に開催の有楽町、東京国際フォーラムのフリーマーケット出店時のものです。

デザインフェスタ2013年5月19-20日にART-Palとして出展を終えて。

デザインフェスタ2013年5月19-20日にART-Palとして出展を終えて。

(質問があったことと、現状の佐藤健二における絵の取組みについての備忘録)

◆モンドリアンと抽象具象とイマを描く佐藤健二について 現代絵画とひとくくりにして話をしていた。

「モンドリアンとか私、好きなんですよね。もちろん知っていらっしゃいますよね。」
お客さんに言われた。 そのタイミングでは「?」と言う感じ。
変に先人に沿うことは良しと思わないし、適当なことを言うのも時間がもったいないので
無知は無知でまた勉強し直すということで「知りません」と言っておきました。

いまググってみたら、あー、Lookの自転車とかバブルの頃に流行ったアレね。
っていう第一印象でした。
(Lookの自転車高いんですよね。僕はペダルはシマノではなくLook製でした。)

個人的にはマチスにシンパシーはあります。

心躍る感じ。

現代のクラブにも通じることのあるSoulな雰囲気。

モンドリアンにかんしてはコレは大学生の頃にも同じことを言ってたような気がしますが
黒の経線で仕切ることで、どうにでもなる真剣味の無い問答というか、
色のぶつかりでおこる競合状態、そしてそこから発生する闘争に対しての答え
妥協、回避をどう考えるかと言うところ「線を引いて隣あっていない状態」をつくり
マルッと一番面白いところから逃げているので、まぁ、なんでしょう。もったいないな。
と言う感じがします。色なんてモノはRGBにしろ絵の具の顔料にしろ、人間が程度認識できる範囲の色は限られてるんだし

もっと刺激的に何かできないか?とか、もっと穏やかな気持ちになるには何か?とか
いまあるものよりももっと面白い配合ができないか?とか、真剣に取り組もと良いのではと思います。
僕にとっては、モンドリアンよりも、湘南カラーとか、旧国鉄の2トーンカラーの方が
刺激的でイメージを示唆し、日常にとけ込むと言う意味では非常に評価に値するものとおもいます。
モンドリアンよりも赤羽線の配色と車列の絶妙なおかしさとか
「この電車は山手線ではない電車です!」
と主張するための卑屈で投げやりな色使いとかかなり刺激的だったのですが、まぁ、そう言う話はまたいつか。

で、調べていくとモンドリアンよりワシリー・カンディンスキーの方がシンパシーはあるが、
ちょっと逝かれてるし線が細い人なんですね。なんとなく、とりとめも無い感じがします。
また、モンドリアンのビクトリーブギウギは線を排除したあたりでシンパシーを感じるものの、
色数を指定したパズルと言った感じで、自分でマンネリを作り出し、それを一つの演出として
取り入れた感がありますね(一般には難しい話になりがちだし、ルールを設けることで判りやすく
そのレベルで止めておいてあげることで、購買層に語れるうんちくをキチンと用意してあげた)。

ただ、僕は彼ら先人とはあまり関係なく発生している部分があり、どうして抽象画なのか?
という部分ではかなり自分の意のままにと言うか、心躍るからという意味でやってるので、
もうすこし自由なのかなとも思いますし、彼らとの対比で自分のやってることが濁る方が問題かなと思います。

いまも、このように先人の話を見てくれば、古い人の事を思うようになりいま起きている社会の事象 に対応する脚力や
選球眼、波を読む審美眼がねじれてしまうと思うので、大学時代に勉強した偉人たちの現代美術があるということの事実と、
取組みの成果以外にはあまり多くを入力したくないなとも 他人が死ぬまでにやってきた取組みなんて知ったこっちゃない、
その取組みを引き継ぐ気なんてサラサラないしもっと、自分と世界との境界線上にある何かを僕と言うフィルターを使って
取り出していった方が よっぽど有意義なんじゃないかって思う訳です。ネットもテレビも無かった頃の人間の感覚と 現代の感覚は
また少し違ってきていると思いますしね。

更に調べていくとロベール・ドローネー(Robert Delaunay)が 僕の描いている絵にかなり酷似していた笑えますw。

僕自身はレンブラントの使っていた描法を見て インスピレーションを受け円とその関係性についてを描こうと考えていましたが、
ドローネーは町の明かりや新技術に思いを馳せて作り上げているようで、
「何者にもとらわれない」と言う意味で、またキュービズムとは分ける意味でオルフィスム、 純粋芸術としたそうです。

お金との兼ね合いを考える僕のは描いてるものの定着や自分の思うがま学ぶ分は別として、
少々俗物的な尺度があって、現実離れしなくて良いものかなって思ったりもしています。
あまり現実離れした抽象画は受け入れられない訳の判らないものになりかねませんからね。
そう言う意味では、フランス人画家ドローネーのオルフィスムの方向性とも違う。

ってか、別に僕はジャンル分けされるために描いてる訳じゃないし、
奇麗な色を家に持って帰ってもらいたいな〜とおもっているので
ミツバチを呼び寄せるシロツメクサの花にさえシンパシーを覚えるような状態であり
絵と言うよりも、もっと日本の絵に関する商習慣の打破とかをマヂメに考えた方が有意義かと思っている次第。

それを実践するには、僕はやっぱり売れないといけないのかなと言うところに来て
オルフェスムとは遠く遠くベクトルを違う方向にせざるを得ないし、
その方が僕に似合っている何かなのかなと思う次第にいたている訳です。

 

◆僕がやってることは現代会がなの?

現代絵画、僕自身現代に生きているからそうなんでしょう。

技法としては至極トラディショナルな描法で 絵を描くこと、色をおくことを教えてもらい、
そのあとここ20年自分の好きな方法とで絵に取り組んできたため、
当時教わった方法とも微妙に違う、歪な部分があるのも確か。

こと絵の ディフォルメの仕方は全部自分で基準を考え。
展覧会でお客さんの前に出し、売れなければ軌道修正をしてきた。
自分の得意な部分や得意な絵の具、得意な色の使い方なども含めとにかく実践あるのみ。
あとは偶然や目の前の問題にも取り組んでいく。

画壇に属したりしている訳ではないので イイか悪いか、正確なファインアートとはどんなものか?
と言うことは特に考えてこなかった。
で、売れなくてもいいから、とにかく見てもらおうとか いま日本に足りなそうな、家の中に飾って
さっと模様替えができるようになるようなピースを 作り出そうと考えてどうしたものかと毎回思案している。

具象と抽象の狭間を行ったり来たり、
線を引いて赤や青がどれだけの部分を占めたら 少しハッピーになるか?など、やりたい放題で。

古い画家には天才もいるし、新しい画家にも天才はいる。

でも、そんなのどうでもイイから、僕にできることをこつこつとやっていければ それでイイかなと考えてます。
実にもうすぐ20年経つのを良いことか悪いことか考えるようにもなっていますが
広告やアプリの仕事ではマーケット調査と競合調査は必要ですが、
少なくともキャンバスの上では、お客さんのほしがるモノはなにかな?と
考えはするものの、自分のやりたいこと、面白そうな色の配色
いま、コレが良いんじゃないかな?とおもうことで勝負がしたいと考えている。

もの凄い天才と出会って刺激を受けたり挫折感を覚えていても
僕の目の前には自分が自由にしていいキャンバスがあり、
シンパシーを共有してほしいものに関しては、売れる自信がある。(自信過剰、油断禁物。)

あと、日本の絵はバブルと画壇と投機で随分高くなった事実とともに
美術なんて忍術みたいな秘匿主義の上に成り立っているようななにか
オカルト的なものになってきている部分もあるでしょうから、ちょっと一般的には手にするのは
大それたものと言うか、厳かな気分じゃないとまずいものと言うような気分が蔓延しているように思う。

そういう気分じゃなくて、風鈴を買ってくるとか、映画のパンフレットを家に飾るとか
もしくは、コンビニでおいしいスナック菓子を買ってくるような
それくらいの日常的なレベルの感覚と価格で手に取ってもらえるようになればイイなって 思ったりしています。

だから、高級な額は必要としないものが良いと思うし、

だから、巨大なキャンバスを必要としない、

それでいてメッセージの伝わるものがいいな とおもって行動をしています。

2013年5月20日(展覧会終了後の少し高揚した気分と睡眠前のたわごと気分と自分の取組みの現状確認の意味を込めて記載)